昭和48年12月25日 朝の御理解
御理解 第20節
「此方が金光大神よりおかげを受けておることを話にして聞かすのぞ。疑うて聞かぬ者は是非におよばず。かわいいものじゃ。また時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子を持って合点せよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが。」
親も仕方があるまいがと言う事は、サジを投げると言う事ではないですね。親ですから、とにかく言う事を聞いてくれることを、やはり祈るものがその内容になるです。その祈りがやはり【】、今祈りの中に私共はいわばある。氏子信心しておかげを受けてくれよという願いが天地金乃神様の御心であり、それを取次いで下さるのが金光大神である。その金光大神が天地金乃神よりおかげを受けたことを、いうならば、お知らせを受けられたことを、神様の御心を、そのまま私共にお伝え下さる。
人間はこう言う様な生き方にならなければ幸福になれないぞ、幸せにはなれないぞということを、教えて下さる。そういう大変なことであってもです、それを疑うて聞かぬ者はとおっしゃる。疑うて聞かぬものは是非におよばぬと、又時を待っておかげを受けたらとこうおっしゃる。私は是非に及ばずとか、親でも仕方があるまいがというところをですね、私共はせっかちになってはいけないと思いますね。
これは、なら、私と皆さん、私と子供達の場合でもそうです。やはり目に余ることもありゃ、あんなことではいけないと言う事もあるんですけれども、そこはやはり親の信心不足として、お詫びをし、親の祈りとして願わなければおられない願いになってくる。天地の親神様も金光大神もやっぱりそうだと思います。言う事を聞かぬ子をじっと後から、御祈念してて下さっている感じが致します。又時を待ってとおっしゃっる通り、もう仕方がないと向こうにあきらめてしまっておられると言う事じゃないです。
私は今日はここんところを頂いて、親でも言う事を聞かぬ子は仕方があるまいがという、親の嘆きなんですけども、親としてのその嘆きがです、これは、只、嘆きだけではなくて、言う事を聞かせきらない私と言う所に今日は焦点を於いて聞いて頂きたいと思います。昨日、朝の御理解を皆さん頂かれて、皆さんそれぞれに本当に神様の働きとか、力とかいうものを、いよいよ見せて頂き、いよいよ自分のものにさせて頂くチャンスというものは、そういつもはないと言う事。
本当にこの命を天地の神様がお創りになったんだと。ならその天地の親神様にこの体は、修繕してもらったら一番、間違いがない打と。まあ話は聞いて合点しますね皆さん、だがそれを合点するけれども、それを実行させきらない。そこにね、私は親の悩みがあると思うんです。私が昨日、北京から引き上げてすぐの時分に、怪我をしたときの話をしておりますね。その御理解を昨日、久富先生が聞かれてからです、私がここへ一時の御祈念が終わってすぐ出てみえてからのお届けなんです。
親先生もう今日の御理解を頂きよりましてからね、如何に私が忠勤を励みましても本当に忠勤を励んでおられますよ、忠勤を励みましても、今日の御理解のところが私のものにならなければ、本当のおかげじゃないと思いますと言うてお届けがありました。例えて申しますと、今、三番目の息子さんが大工をして、今大変調子が良くて、非常に手広い商売をさせて頂いとります。
もう久富先生のところのいうならば、長男、次男、それぞれに職を頂いて、嫁を貰うてそれぞれに家庭を持っております。家庭を持ってますけど、他所に家庭を持ってますから家になかなか、家に加勢ということはなかなか出来ん。けど三番目のが真面目に大工しとりますから、収入も大変よくなって、この頃は奥さんを貰うところまでおかげを頂いております。家もおかげで立派になりました。そう段々おかげを頂いておりますがです、その家族の者に久富先生の信心に、信心せんのじゃない参れと言や参る。
さあ大祭か何かの時には皆ならお参りもしてくる。何かお願いがある時にはお参りもしてくる。月に一回か二回くらいはその子供達もやっぱり参ってくる。まあその程度の信心。ですから色々な時にお父さんを使う訳ですね。ああどこか役所に行ってくれとか、その大工の方であるとまあその人夫替わり、時にはお父さんあんたが来て采配をふって人夫の方達に言うて片付けなんかして貰にゃならんから来てくれと。と言うて頼まれると結局それを受けて家庭の者に使い回され又は子供に使い回されておられる。
それで子供も喜びや、自分もまあ嬉しいわけですよね。別にあんたお父さんがおって監督して貰うがよいという仕事の場合なんかは、まあ建築いろんな、その人夫だけでは出来ないようなあれがあるらしいです。時々行かれるわけです。そこで久富先生、あなたがね一人息子のところの、なら現場なら現場に、監督に行ってやんなさる。あなたが一人の人夫の働きをしなさる。結局御取次を頂いて行くから、確かにお父さんあなたが来てくれるとおかげを頂く。
自分も又神様に今日は自分を使って下さっているなと言う様なおかげを頂く、そういうお取次を頂きおかげを頂くというところに、腰掛けている自分に気がついたと昨日言うとられます。成程お取次を頂けばです、おかげを受けるんですよ。やはり家族の者も喜ぶんです。仕事の現場もやはり人夫が行くより自分が行った方がすっきりするんです、やっぱり。けれども、久富先生それはなら、あんたがよし二人分出来たところで。
人夫一人分か二人分出来る事であって、神の用を足せば氏子の用は神が足してやるというような、おかげじゃなかろうがとこう言う事です。昨日そこのところが説いてあるんです。そういう時にです、例えば家内が言うても家族が言うても、なら息子が言うても、うん、それは私が行ってやれば、あんたんところは片づくとは片づこうばってんね、私が行った分じゃ私が一人前だぞと、私が神様にお願いしてやる。
私が神様に向かうと言う事はです、その位の事じゃないお父さんはやっぱり神様に一途一念にそれこそ忠勤を励まさせてくれという生き方になったら、父親がいっちょん家のことはせんと言いながらもです、必ずそれがおかげになってくる。本当に親父が信心してくれるおかげで、こういうおかげを受けてると言う様なです、親父一人を使うた位の事じゃない、そのおかげが頂ける。そういう素晴らしい限りない働きが頂けれる。限りない力の頂けれるチャンスをお互いが、右左にしている言う事である。
これは久富先生だけのことではない、みんながそうである。いよいよここは神様の本当の底力を見せて頂き、それもです、一回、二回、三回、四回、五回、例えばそれが成就しないからというてです、それを繰り返しして行くうちに神様の本当の働き、そこに信心辛抱が必要と言う事になってくる。例えば私がお前のところに手伝いに行かなかった。お父さんは子供の事を聞いちゃくれん。
けども神様の方へ向かって行く方がお前達もおかげを頂くというばってん、いっちょんおかげを頂かんという有り様がなら、次々と続いてもよいのです。そこが稽古なのですから、そんなにそうねお父さんが言う通りに、お父さんが行くよりおかげ頂こうがというのが、もう目の目木算にあるとは思われないと言う事です。そこが人間の凡夫、私が怪我の中に、ああ、これでいよいよおかげ頂くたと思うたところから、そこに油断が出来た。そこから又却ってひどくなったと言う様な事がある。
けれどもそこんところをです、例えば神様のそのいうならば、教祖金光大神が嘘はおっしゃってないという事実を、確証的に自分の者にするまでは時間がかかる訳です。私はここんところでです皆が挫折するとこう思うです。昨日熊本の富永先生、ご夫妻が年末の御礼に出て見えた。で昨日の御理解を頂いて、もう本当にここらへんが自分達もおろそかになって、成程御取次を頂いて、日奈久教会の上にもおかげを頂いとるけれどもです、いよいよのところを自分のものにしきらんでおるということを気付かれた。
才崎と言う所に、片岡二郎四郎という先生がおられた。この方は教祖様の御直信で金光大神の御神格を受けられる程しのお徳の高い先生であった。その方の事を昨日富永先生が話しておられた。教祖様の所へ十二回も例えば一つの事が成就するといわれるから頑張るけどそれが成就しない十二回繰り返された そして十三回目に成就した時には、それだけの力を才崎の金光大神が受けておられたというお話であります。
そこに私は、今日の御理解のことは、なるほど例えば金光大神は才崎の、片岡二郎四郎先生にいうことを聞かせ得られたという力を持ってござったという、言う事を聞かせきんなさったわけです。なら久富先生の話を聞かせて貰うても、久富先生のその自覚から、これからはという、例えばそれが実行出来るか出来ないかはまだわかりません。息子が今日一日休んで今日は家を手伝ってくれんのと、いや今日からはこうぞと恐らく言いきんなさらんと思うです。
それがわかっとるけれども出来ない。それはどう言う事かというと、私が久富先生に言う事を聞かせきらんと言う事になるわけです。それはまあ仕方がないけれども、いつかはそこんところを頂くだけのおかげを頂いてもらわんならんと祈りはあってもです、只金光大神は片岡二郎四郎先生に、十二回もいうならば金光大神の、それが十回目で止めとったら、金光大神嘘おっしゃった事になった。
十一回目で止めとったら、やっぱりもう金光大神、いわっしゃっる事が間違いだというふうになっとったかもしれん。けどもそこを矢でも鉄砲でも持って来いという勢いで突き進まれたところに、ようやく十三回目に成就した。成程金光大神は嘘はおっしゃらない。しかもそれは十三回もかかっとる中に自分が徳を受けとった、力を受けとった事に気付いておられる。
例えば昨日の御理解から引き続いて頂きますとです、ああいうそういう力を頂かして頂けれるようなチャンスというのは、そういつもあるもんじゃない。けれども私共の場合、それをお取次頂いて、久富先生今日はこんなふうなわけでございますから、こちらの御用の方は、御無礼して息子の方へ行きますから、よろしくお願いしますと言えば、ちゃっとよろしくおかげを頂いとる。それに腰掛けとる自分がいうなら、私が如何に忠勤を励んでも、いよいよのところが力が頂けんと言う事が分ったと言われるです。
だからそこが分っただけではいけないのである。それをいよいよ自分のものにすることの、おかげを頂かせて頂く時にです、いうならば、神の言う事を聞いたと言う事になるのじゃないでしょうか。親の言う事を聞いたと言う事になるのじゃないでしょうか。成程親の言う事さえ聞いとれば、おかげが受けられるだけでなくて、力も徳も受けられると言う事を、体験させて頂くのじゃないでしょうかね。
どうぞ。